2015年4月27日月曜日

夫婦となって50年

夫婦となって奇跡のような50年!







人は云います、結婚記念日には「努力して生きて行きます!」
と誓った初日を思いだすため、記念日に乾杯するのです。と、、

人生とは波乗りの様なものと例えられますが、
私もそうだった。
大波、小波を乗り越えて、今日があります。

他人であった人間が何かの縁で、夫婦の契りを交わし、
此の人生を肩を寄せ合い、人生を歩むのか!、、、と
バージンロードをハイヒール靴でヨロヨロしながら、
父親代理の野崎氏の腕に縋り付いていたのでした。

「ガタガタ振るえていたよ!」と後々の野崎氏が笑っていた。

 
当時の私の結婚は目に見えない霊なるものに繋がれていたのでは、、、
と云う事に後々気が付かされて来ました。

(5歳の頃日本語以外の言葉を聞いた時、、何か懐かしさを憶えた、、
其の時、何故か、日本語でない外国に何時か、住む様な気がしていた。
現代とは違い、戦後の其の頃は外国との交流など望みも出来ません)


結婚とは
”見えない赤い糸で結ばれている、夫が針、妻が糸、、”
”夫は家の大黒柱、妻はそれを支える土台”

時々糸が先に進もうとしたり、
土台が支える事をセズ、立ち上がってしまったり、
危ない、、あぶない、、家が崩れる寸前!
と、、幾度も反省し、、そして、
生命の本源に戻り、魂の行事に戻ったものです。

50年もの月日を一緒につき合ってくれた、
愛方Davidに心から感謝の気持ちを込めて、、、、
今夜は50年の労いをお互いに
祝い合い乾杯します。




(結婚とは詳しく書いてくれた西尾仁さまの言葉をシェアー致します)
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                                          by、西尾仁

「結婚記念日、結婚した日を何故祝うのか?」
 
祝っているのではないです。
結婚と言うのは、
今まで育ってきた環境が違う人間が一生を共にしようと
お互いを人生のパートナーに選ぶことです。
 
一人で一生を終える事もできますが、あえて他人を選ぶのです。
この結婚生活がうまくいくには、
365
24時間たえまない努力が要るのです。
 
それはお互い思いやり、いたわりあい、ねぎらい
自分の心と体以上に、相手のことを大事に優先する気持ちを
お互いに持ち続けることです。
 
一週間に一日会う人でもなく、
昼間に会う職場の同僚でもない、
36524時間死ぬまで一緒にいる他人です。
 
相手に対して最大限の敬意と、細やかな神経を使い、
 
親兄弟よりも最優先する相手。それが結婚相手ということ。
 
その努力がお互い継続していることを、お互いに感謝し
「努力して生きていきます!」と誓った初日のことを思い出すため、
記念日に乾杯するのです。
 
夫婦は血肉のつながった親兄弟ではないのです。
何かのすれ違い、ボタンの掛け間違いで
あっという間に別れてしまい、一生会う事もなくなる。
全ての縁を切ってしまうことができる、危うい間柄です。
 
だからこそ、日々の手入れが大事。
自分の親兄弟よりも一番気を使う相手。
 
結婚は
結婚届けを出してからコツコツ
喜び、悲しみ、困難
それを2人で助け合って乗り越えていくこと。
絆と信頼が真の「夫婦」に変えていくのです。
 
記念日は「戦況結果報告」の場でもあります。
そして2人再び人生を手を取って歩くために、
お互いの手を握りなおす、そういう時間でもあります。(反省会)
 
結婚生活は長くて短いマラソンです。
1
年に一回ぐらい
2
人立ち止まって、今まで走ってきた道を振り返り、
その道を遠く眺めて、一緒に走ってきた者同士、
にっこり笑いあい、また走り出すのです。


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感謝、、、、



2015年4月5日日曜日

50 Years of Aikido in New Zealand

50 Years of Aikido in New Zealand







To mark the 50th anniversary of aikido in New Zealand we have made up a 16-page booklet of photos and news-clippings from our personal albums and scrapbooks. Page One shows Hisae teaching aikido at the YWCA in Auckland in 1965, as featured in the “New Zealand Herald” at the time.

The Introduction to the booklet reads as follows:


Introduction

The following historical photos and clippings were taken from our private albums. Although we opened the first dojo in New Zealand (in 1965) we were absent from the scene for 15 years during our second sojourn in Japan, and there have been many other teachers who have contributed to the development of aikido then and since.They deserve a place in any formal history—which this little booklet does not pretend to be. We have confined ourselves here to the history of our own dojo and do not intend any slight to those persons not mentioned herein. Important persons within our own aikido “family” may also have been omitted due to lack of material, and we apologise for that.

Being the first was an accident of history and not a great personal achievement, and the growth of aikido since we pioneered it in New Zealand has been due to the sincere efforts and enthusiasm of so many fellow instructors and students who have our everlasting respect and appreciation.

Fifty years is nevertheless a significant milestone and we feel that reflecting on the past is important for a better appreciation of the present, and should contribute to a positive outlook for the future. The photos are not of the best quality, due to their age, but we hope they will be of interest.

         David & Hisae Lynch (May, 2015)





Caption: Japan in the 1960s: David in the street outside the Yoshinkan Dojo where he spent 18 months as a live-in student (uchideshi) in the early 60s, and Hisae Kamata featured in a Japanese magazine teaching aikido at a girls’ college in Tokyo. Hisae was already 3rd Dan when David joined the dojo. She was Shioda Kancho Sensei’s secretary. David was the only non-Japanese uchideshi at that time. He often walked around the streets dressed in a dogi and wearing geta (wooden clogs).

2015年4月4日土曜日

真の世界の構図


              
             (私の大好きな池田整治先生記事をシェアーいたします。)



真の世界の構図
                    By 池田整治

【還暦総決算】
「この国を操り奪う者たち」(ヒカルランド)が今、手元に届きました。
15歳からはじめた41年間の自衛官生活、そして還暦。
その総決算の半生記と言えます。
今回、その前書きをお届けします。

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(はじめに)・・日本を奈落の底に陥れようとするものたち
人生は、不思議で深く、また楽しい。
それは未知の山登りに通じます。
進むたびにやってくる三叉路で、迷いながらも道を選択してさらに歩みます。
「もし、あの道(職)を選んでいたら
「もし、あのとき彼女(彼氏)と結婚していれば」等々、心の中で葛藤しながら
そして、定年退職を迎える頃、あるいは女性なら子育てを終えた頃は、
山登りなら小さな峠を迎えた時と言えます。
ちょっとした達成感で一呼吸して立ち止まって後ろを振り返った時に、
それまで暗中模索で歩いてきた森の全体像が鳥瞰図的に一望に見えます。
そのとき、やっと自分の人生航路の意義が少しは明確になるのかも知れません。
そうなるとしめたものです。
残された最後の日々を、目的意識を持って活き活きと、
人生の最終的な真の目的に向かって歩むことができることでしょう。
いずれにせよ、全ての人にとって、
今日の「今この時」が人生で一番若い時です。
現代文明の歴史的な進化の歩みの中で、
時期的にも決定的なターニングポイントを迎えている今、
限られた貴重な日々を迷うことなく本来の道を歩むには、
今の自分の位置・環境を鳥瞰図的にしっかり知ることです。
 特に、この日本社会を巧妙に裏から情報支配し、
善良な市民を誤った道に導いて陥れながら経済的に搾取している輩の存在を
しっかりと知って、
本来の道を踏みはずさないことがとても大切です。

私は、4年前に41年間勤めた自衛隊を退職し、
現在、自称「真実の語り部」として執筆と言論活動を行っています。
通常ならば、今頃は自衛隊の就職援護のお世話を受けて再就職し、
サラリーマン生活に入っているはずです。
ところが、退官前に「マインドコントロール」(ビジネス社)を出版して異端児となり、
ネット上においてもトンデモ元自衛官のレッテルを貼られ、
現在独立独歩イバラ?!の道を歩んでいます。

何が私にこの道を歩ませているのでしょうか。
私には、ハッキリ未来が見えるのです。
このままでは、日本人は知らず知らずに人口抹殺されながら、
お金だけは世界金融支配者たちに吸い取られてしまう近未来地獄絵図が
また、それらの総決算としてのどんでん返しの「大峠」が身近に迫っていることも
なぜならそこに、日本を奈落の底に落とし込めようとしている「真の敵の姿」が見えるからです。

例えば、この4月に来日したオバマ大統領が、
世界を金融支配する輩たちの使用人に過ぎないことがわかれば、
中国や韓国、北朝鮮を巻き込んだ「歴史的な仕掛け」を「洞察」した上で、
未来の日本人のために何を選択しなければならないか、
自ずと答えは出てくると思います。

端的に言えば、原発の再興は世界金融支配体制からの強制であり、
ドイツのように脱原発・自然との共生型国家に切り替えた時、
日本は戦後の植民地体制から脱却し、真に独立国家になった、と判断できるのです。
この構図がわからない限り、真の世界情勢は理解できません。

人は、それぞれ自分の体験を通じ成長し、認識力を高めて行きます。
私が、このような認識を持つようになったのも、
15歳から56歳まで歩んだ自衛官という人間修養の道のおかげです。
まずその入り口で、15歳で飛び込んだ直後に味わった、
社会的な自己の存在そのものを否定されるという目覚めのための「ショック療法」は、
その後の私の人生、特に思考過程に深く影響を及ぼしました。
また、運用幕僚という、この国をいかに守るかという
国家の命運を直接考えるきわめて限られた少人数の作戦幕僚の立場になって、
さらに実際に阪神淡路大震災やオウム事件、有珠山噴火災害などの現場等で得た
体験がなければ、
マインドコントロールも書かなかったし、今の私も存在しません。

それ故、41年間の自衛官の道を歩みながら、
どのようにこの認識が確立されていったのか、
あるいは真の敵を意識するようになったのか、
この本で明らかにしたいと思います。

我々日本人のDNAには、自然ばかりか全ての万物と共生できる
世界唯一の「ヤマトごころ」の遺伝子があります。

そのわれわれの兄弟であるアメリカ・インディアンのホピ族には、三叉路があれば、
「7代先の子孫まで永久(とわ)に続く道」を選んで歩みなさい、という教えがあります。

私たち日本人も、7代先の子供たちが活き活きと生活できる社会を残さなければなりません。

この本が、その未来へつなぐ一つのきっかけになることを祈ります。
(引用終わり)
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是非、拙著が少しでも日本人の覚醒、日本の蘇りに役立てば幸いです。
細部は、池田整治公式HPからご確認下さい。